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ロシアとウクライナの歴史 ~侵略され続けた忌まわしい歴史~

ロシアとウクライナの歴史 ~侵略され続けた忌まわしい歴史~雑学
ロシアとウクライナの歴史 ~侵略され続けた忌まわしい歴史~

 

ロシアによるウクライナ侵攻が世界情勢を大きく揺るがしていますが、どうしてこのような状況になったのか、歴史的にロシアとウクライナにはどのような関係性があったのかご存じでしょうか。

二つの国の起源から、現代の関係にいたるまでの経緯を解説します。

 

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ロシアとウクライナの起源

ロシアとウクライナの歴史を遡っていくと、どちらも「キエフ大公国」という一つの国にたどりつきます。

9世紀に東ヨーロッパに誕生したキエフ大公国は、建国から250年が経った頃から小さな国に分裂し始め、やがて侵略してきたモンゴル軍によって崩壊しました。

ロシアとウクライナはこの分裂した国々の中から生まれることとなりますが、その成り立ちは対照的なものでした。

のちにロシアとなる国は、周辺の国々を吸収しながら自力でモンゴル軍による支配を脱し、大国へと成長していきました。

一方、ウクライナとなる地域は、長いあいだ安定して独立した国を維持できない状態が続いていました。

農作物がよくできる魅力的な土地をもっていたことと、あらゆる国や民族が交わる絶妙な場所に位置していたことから、ウクライナは侵略者の標的にされやすかったのです。

さまざまな国の支配を受け続けたウクライナは、18世紀になると、大国へと成長していたロシアに大部分を支配されました。

ロシアは自分こそがキエフ大公国の正式な後継者と考えており、かつて同じくキエフの一部だったウクライナが自分のものになるのは当然として、ウクライナをロシアの中の単なる一つの地域として扱うようになりました。

ウクライナの都市部には多くのロシア人が移り住み、ウクライナの法律を廃止しロシアの法律を導入、ウクライナ語を禁止するなど、徹底したロシア化が進められていきました。

しかし、20世紀になると、ロシアではそれまでの国のあり方を大きく覆すような変化が訪れ、ウクライナにはさらなる混乱が降り注ぐこととなります。

 

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ロシアの革命、荒廃するウクライナ

1917年、それまでロシアで権力を握っていた政府が国民の手によって倒されました。

この革命で新たに権力を手に入れたのは、暴力を推奨するグループでした。

ウクライナはこのタイミングでロシアからの独立を宣言しますが、ロシア新政府も、以前の政府と同様、独立を認めませんでした。

同じキエフ大公国を起源に持ち、しかも豊かな土地をもっているウクライナはロシアにとって欠かせない領土であるということは、思想を問わずほとんどのロシア人にとっての共通認識です。

新政府は一度は話し合いを試みたものの、ウクライナ側が交渉を拒否したため、軍隊を投入しました。

こうして起こった戦争はロシアとウクライナの戦いにとどまらず、革命の流れが自分の国に広がることを恐れてロシアの新政府を倒そうとする国や、ウクライナを手に入れようとする国、ロシアの古い政府を復活させようとするグループ、ウクライナを別の形で独立させたいグループなど、いろいろな国や組織が介入し、ウクライナは無秩序な紛争状態に陥ってしまいました。

最終的にロシアの新政府が勝利し、ウクライナにはロシアの新政府の息のかかった政府が誕生しました。

この頃、ウクライナの周辺には他にもロシア新政府の息のかかった政府がいくつか誕生しており、新政府はこうした国々をまとめあげ、一つの新しい国を作り上げました。

これが「ソビエト社会主義共和国連邦」です。

1930年代に入ると、ソ連のリーダーは国の力を強めるため、ウクライナでとれる農作物を大量に海外に売りさばこうと、農民を国の管理下において徹底的に農作物を徴収しました。

自分たちが生きていくのに必要な最低限の食糧まで奪われ続け、ウクライナは大飢饉となりました。

さらにその後の第二次世界大戦の時代にも、激しく争うドイツ軍とソ連軍にはさまれたウクライナでは、略奪や破壊、虐殺などが相次ぎ、その国土は荒れ果てていきました。

 

冷戦の終結

第二次世界大戦後、世界の国々はアメリカ側とソ連側に分かれて対立し、冷戦時代に突入します。

アメリカ側の国々は、一致団結してソ連に対抗するため、どこか一つの国が攻撃を受けたら全員で守るという約束をかわし、この約束をもとに一つの組織をつくりました。

これがNATOです。

NATOに対抗するため、ソ連も支配下にある国々と同じような約束を交わしましたが、冷戦が続く中でソ連と他の国々はすれ違い始めました。

当時ソ連はすべての企業を国が所有し、何をどれだけ作りいくらで売るのかを国が一括で管理するシステムを社会に導入しており、他の国々もそれにならっていました。

このシステムは、短期的に見れば国にとって必要なものを量産できるメリットがありますが、各企業が国民のニーズや適正価格を追求することがなくなります。

結果的に経済は回らなくなり、国民の生活が苦しくなっていく中で、各国内ではソ連に対する不満がどんどんたまっていきました。

そのあいだにもアメリカに遅れをとらないよう兵器を作ることにお金を注ぎ続けたソ連は、次第に疲弊していきました。

1985年に新たにリーダーとなった人物は「このままではソ連が崩壊してしまう」という危機感を抱き、凝り固まったソ連社会を大胆に変える政策を始めました。

その一環として、それまで厳しく管理していた国々に対し「もうソ連に従う必要はない、自分の国のことは自分で決めるべきだ」という方針が打ち出されました。

これをきっかけに各国では、ソ連の言いなりとなっていた政府を倒す革命が続々と起こり、ソ連自身もそれまで対立していたアメリカ側の国々との関係を見直す動きを見せました。

こうして44年に渡って続いた冷戦は終わりを迎えました。

 

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ソ連崩壊とNATO

凝り固まった社会にある程度の自由を与えるという一連の改革は、確かにソ連社会のあり方に変化を起こしましたが、国民がより自由を求める流れを生み出すことにもつながり、本来ソ連のリーダーが思い描いていた未来とは全く違った結果をもたらすこととなりました。

1991年、ソ連は完全に崩壊し、この瞬間、ウクライナを含めソ連を構成していた国々は完全に独立を果たしました。

ソ連の支配から解放された東ヨーロッパの国々は、自分の国のことを自分で決められるようになったことに喜んだ一方で、「自分の国の安全をいかに守るか」という大きな不安がありました。

周辺には体制が大きく変わったばかりで不安定な国が多いという状況で、もはや大国の後ろ盾もありません。

自分の国で内戦が起きたり、周辺の国々の争いに巻き込まれたり、再びロシアに攻め込まれる可能性もゼロではありません。

そんな中で導き出された解決策が「NATOの仲間になる」ということでした。

ソ連が崩壊したことでその存在意義を失ったNATOは、新たにヨーロッパ周辺地域における紛争をおさえるという目的を掲げて活動を続けていました。

NATOにとっても活動範囲が広がることは好都合だったため、仲間入りを望む東ヨーロッパ諸国を少しずつメンバーとして受け入れ始めました。

かつて仲間だった東ヨーロッパ諸国が、敵だったNATOに次々と加盟しているという流れに、ロシアは警戒心を抱いていました。

しかし、ヨーロッパの平和を維持するのが目的だと表明しているNATOに対して抗議する正当な理由もなく、もはや諸国の動きを封じ込めるだけの力もありません。

そんなロシアにとって、なにがなんでもNATOへの加盟を認めるわけにはいかない国がいくつかありました。

その一つがウクライナです。

広大な領土を持っているロシアは、ただでさえ国境の警備が大変なため、国境を接する国にはできる限り親しい国か中立的な国を置いておきたいという考えをもっています。

ウクライナがNATOに入ってしまえば、国境の多くの部分をNATOと接することになり、大きなリスクになるため、ロシアとしてはなんとしてでも避けたいところでした。

しかし、2008年4月、ウクライナがNATO加盟に向けて積極的に動いていることを受け、NATOは将来的にウクライナの加盟を認めることを約束しました。

まさにロシアにとって最悪のシナリオです。

これを受け、プーチン大統領は、欧米諸国に対して次のようなメッセージを送りました。

「これ以上NATOが東へ領域を広げるようならロシアはウクライナへ軍事的な行動に出る用意がある」

 

いかがでしたか?
プーチンのこの発言は、2014年に現実のものとなり、現在の状況へとつながっていくことになります。

 

参考 : theguardian, historyextra, など

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