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宇宙先進国のソ連が夢破れた理由 ~アメリカ一人勝ちの裏側とは~

宇宙先進国のソ連が夢破れた理由 ~アメリカ一人勝ちの裏側とは~衛星
宇宙先進国のソ連が夢破れた理由 ~アメリカ一人勝ちの裏側とは~

人類が初めて月へ到達してから久しいですが、それは当時魅惑の挑戦とも言えるビッグイベントでした。

当時、宇宙開発を牽引していたソ連は、アメリカのアポロ計画の成功と共に悔しさを滲ませたように見えていましたが、アポロ計画成功の2週間少々前、既にその夢は儚く散っていたのです。

月への初めての到達はソ連のはずだったのか?ソ連に何が起きたのか?

今回はその知られざる裏側を見ていきましょう。

 

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運命の日の17日前

1969年の7月に入って間もない日、アメリカ人宇宙飛行士のアームストロング船長とオルドリン宇宙飛行士が「アポロ11号」で月面に降り立つ、ほんの17日前のことでした。

ソ連による月面着陸計画で、2回目のロケット打ち上げが実施されました。

その後上空を通過したアメリカの“スパイ衛星”が、なんとソ連のロケット発射台のうち1台が完全に破壊された状態で放置されていることを確認しています。

そのときのソ連は、これがソ連の月面着陸の夢を完全に失う予兆であるということに全く気づいてはいなかったことでしょう。

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ソ連が計画に失敗した「致命的要因」は、未だ不明

ガガーリンと聞けば聞き覚えのある方が多いのではないでしょうか?

当時の宇宙開発レースにおいて、1957年に打ち上げられた人類初の無人人工衛星「スプートニク」と、1961年の「ボストーク1号」に搭乗した、ソ連がどの国よりも先に有人宇宙飛行を実現した時の宇宙飛行士です。

この頃を思えばソ連が大きくリードしていたことは明白です。

また、ソ連の宇宙計画の実権者たちの間で起きていた“内輪揉め“が失敗の一因となったのではないかという考えもあります。

費用についても一因となった可能性があります。

ロケット研究の予算を統括していたソ連軍から支払われる“宇宙計画費”が不十分であったことで資金不足に悩まされたソ連の研究者たちにとっては、アメリカの有人宇宙探査計画を凌ぐチャンスがもはや無かったのです。

 

決して近づけない距離感へ

当時から50年以上が過ぎた現在になって、ソ連の宇宙開発にも進捗がありました。

当時「N-1ロケット」を開発していた設計機関が、2015年に満を辞して当時のソ連の宇宙計画が苦戦を強いられた資料を公開したのです。

資料からは、ソ連の研究者による月面探査のため、26ものシナリオが解析されていたことがわかりました。

それらのシナリオをよく精査し、最終的な計画へ辿り着こうとしている様子をうかがい知ることができます。

よく見てみると、どのシナリオも実現性に欠けた計画でした。

複数の巨大ロケットを使った打ち上げや、実験どころではなさそうな組み立て手順、そして、”地球軌道上での燃料補給”といったかなり挑戦的な試みも示されています。

しかし、計画の完成には程遠い状況であったことは明白なのです。

そのようなソ連に比べ、1962年のアメリカでは今では著名な科学者たちがすでに大きく動き出していました。

単一ロケットによる打ち上げ計画が推し進められようとする中で、そのためのサターンVロケットの開発が大急ぎで進められていたのです。

この時既に、ソ連の科学者たちは1年分の研究ほど、アメリカに遅れを取っていたと考えられ、以降の有人月旅行計画はひたすら下り坂を転がり落ちていくようでした。

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ソ連に追い討ちをかける不運の数々

計画初期の当時、まだ机上での研究が主だったソ連は、大きな予算を投じる段階には入っていませんでした。

それにも関わらず、燃料の使用や、もっと後で議題となるはずの月面探査ロケットの設計などに関する意見がまとまらず早い段階で内輪揉めが続き、そのことでソ連の有人月旅行計画は一向に進まなかったのです。

1964年を迎えてようやく、月面到達レースへの参加を保証する政府からの許可がソ連の科学者たちにも出されましたが、もはやライバルに追いつくことは叶いませんでした。

その後4年にも渡り起きた無数の技術上のトラブルや、実験の難航が続き、ソ連とアメリカという月を巡るライバル同士の差は更に開きます。

ついにロケットの製造工程へ進んだソ連でしたが、ここで地理的な問題にも直面することになりました。

例えば宇宙基地の発射設備は、海港から遠く離れていたため、発射台の組み立て部品などをカザフスタン経由で運び込む必要があり、多くの人手を必要としていました。

ソ連による月面探査の計画に決定的な打撃を与えたのは、N-1ロケットの「主推進システム」だと考えられています。

資材も時間も不足したため、当初N-1ロケットに搭載されるはずだったエンジンの4分の1ほどの規模の小型エンジンが採用されたのです。

そのため、搭載するエンジン数に影響が出ました。

24基ものエンジンを搭載する羽目になったことに加え、それでも十分な推力が得られないことが分かると、今度は“30基”のエンジンを組み合わせ、連動させなければならない状況に陥ったのです。

また、地上でのエンジン開発に欠かせないとされる実験のための施設の建設も、時間軸とコスト面の兼ね合いから諦めたようです。

そうして、どうにかつくられた複数の新品エンジンは「おそらく本番では問題なく作動するであろう」という想定の上で組み合わされることになったのです。

 

既にソ連は失敗していた

1969年2月に行われた初めての打ち上げ実験は悲惨でした。

推進システムの故障により、わずか1分8秒飛行した後に墜落しています。

プロジェクトの責任者たちは、明らかな失望を見せたものの、プロジェクトを断念することはありませんでした。

というのも、人は死なず、発射台も再利用可能な状態で、ロケットは“多少の”飛行能力を示した点においてほぼ“無傷”だったからでしょう。

実際のところ、それまでソ連のロケット打ち上げに関わってきた多くのソ連のベテラン科学者たちはこれどころではない大きな失敗ばかりを経験してきた分、今回の“進捗”はどちらかと言えば喜ばしいものだったのです。

その証拠に、彼らはすぐに、N-1ロケットの2度目となる打ち上げ計画に着手しています。

そしてN-1ロケット2号機の発射実験は、1969年の夏に行われました。

そのころアメリカは、アポロ9号と10号による入念な事前シミュレーションを終え、月面現地を見据えた計画が着々と練られていました。

この時既に、アメリカの勝利は目の前に迫っていたのです。

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明らかな敗北

1969年7月3日から4日にかけて発射されたロケットの、最後尾から炎を出しながら部品が外れて急降下したのは、高度がほんの100mで、打ち上げからわずか10秒少々後のことでした。

ピタッと空中で停止した巨大ロケットはそのまま向きを変え、緊急脱出用のエンジンの発動によって宇宙飛行士2名は夜空の暗闇へ消えていきました。

エンジン爆発でコントロールの効かない巨大ロケットは、発射台へと散ったのです。

その瞬間、辺り一面は大爆発に襲われたといいます。

完成までに数年間を要した発射台は周囲の複合施設もろとも、消滅しました。

ロケットの破片は約10kmも離れた地点でも発見され、6km以上離れた地点でも建物の窓が吹き飛ばされたことが衝撃の大きさを物語っています。

 

月の夢が覚めた

この時の打ち上げ失敗によって、ついに月面着陸レースにおけるソ連の夢は砕け散ったと言えるでしょう。

それから数年間で更に2度の打ち上げ失敗を経て、ついに1974年6月、ソ連はプロジェクトを諦める判断を下しました。

ソ連による宇宙開発計画自体は、世界の宇宙開発にとてつもない貢献を残しています。

しかし、月面着陸の夢は1969年時点で、すでに打ち砕かれていたのでしょう。

 

いかがでしたか?宇宙開発といえばアメリカと並んでロシアというイメージをいまだにお持ちの方も多いかもしれませんが、2国にはとてつもない差があることがわかります。技術力や費用の工面、研究の進捗や物理的要因など、勝利を勝ち取る国家というのは実力のみならず、運も求められるのかもしれません。
参考 : popularmechanics, など
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