私たちが住むこの世界は、コンピュータ上で動くシミュレーションに過ぎないのかもしれません。このような「人類はバーチャル世界に生きている」という仮説は、シミュレーション仮説と呼ばれています。
突拍子もない話に聞こえるかもしれませんが、このような考え方は大昔から東西を問わず存在していました。
古代ギリシアの哲学者、プラトンがイデア論を説明するときにも、シミュレーション仮説の一種を比喩として用いていました。
中国の思想家、荘子の説いた「胡蝶の夢」という説話からも、現実世界とバーチャル世界に関する荘子の考え方が、極めてこの仮説に近いものであったことが読み取れます。
また、20年以上前に公開された名作映画『マトリックス』でも、現実とバーチャルを行き来する主人公たちの姿が描かれていました。今回は、これらシミュレーション仮説研究の現在をご紹介いたします。
本当にこの世界はシミュレーション?
近代の例では、オックスフォード大学のニック教授が この仮説に関する研究を論文として発表し、評判を集めています。
教授が考察したのは、高性能なコンピュータを利用して、私たち人類のような、自我を持つ存在が暮らす世界を シミュレートする という行為の実現の可能性です。
その結果、実際のところは次の3パターンのうちのいずれかの状況に帰着するだろうと教授は結論付けました。
①知的生命体はそこまでの高度な科学技術を築き上げた頃、すでにシミュレーションなどの領域には興味を示さなくなっている。
②そこまで高度なシミュレーションを実現できるだけのコンピュータ技術を完成させる前に、たいていの知的生命体は滅亡してしまう。
③私たち人類がコンピュータによるバーチャル世界に住んでいるという可能性は、ほぼ100%である。
バーチャル世界である可能性は50%
コロンビア大学で天文学を研究するデビッド教授は、ベイズ推定の考え方を用いて、この世界がコンピュータによるバーチャル世界である可能性について推論を試みました。
デビッド教授はまず、ニック教授の出した結論をもとに、シミュレーションが行われる場合と行われない場合を区別しました。
すると、存在の可能性がある世界は、コンピュータによって作られた「バーチャル世界」か、反対にコンピュータで世界を作ることはできない、「物理世界」の2通りしかないということになります。
そこで、教授は「無差別の原理」の立場を取りました。無差別の原理とは、事前情報がない事象には、等しい確率を割り振るという考え方です。
この世界は2通りしかないので、2通りの事象に等しい確率を割り振ると、50%:50%になります。
この理論に基づいて、教授は、この世界がバーチャル世界である可能性は50%、物理世界である可能性も50%だと主張しました。
生産現実 or 非生産現実
コンピュータによって生み出されたバーチャル世界の中に、さらに別のバーチャル世界が生み出されることがあるとする立場を「生産現実」といいます。
反対に、コンピュータで生成された世界の中で、さらに世界が生成されることはないとする立場は、「非生産現実」と呼ばれています。
デビッド教授は、この2つの現実についても考察を進めました。もし、この世界が物理世界なのであれば、生産現実である可能性は当然ながらゼロです。
では、この世界がバーチャル世界である場合はどうでしょうか?教授によると、シミュレーション仮説が正しいとしても、生産現実のバーチャル世界はほとんど存在しないそうです。
なぜなら、バーチャル世界の下にバーチャル世界が次々と作られていき、レイヤー構造的にバーチャル世界が積み上げられてしまうと、意識的な存在が生活している世界の演算能力が不足してしまうからです。
教授は「意識的な存在」という言葉の意味を詳しくは説明していませんが、おそらくは初めてのバーチャル世界を作り出した、最上位の世界に住む存在のことを指しているのでしょう。
物理世界の崩壊
デビッド教授のここまでの推論や、他の研究者の考察を再度ベイズ推定に当てはめると、次のような結論が得られました。
教授の言う通り、この世界がバーチャル世界である確率と物理世界である確率は、それぞれ約50%ずつであるが、後者である可能性のほうがわずかに高いということです。
しかし、この確率値を大きく覆してしまうきっかけがあります。それは、私たち人類がコンピュータによるバーチャル世界を作り出してしまうことです。
私たちがバーチャル世界を作り出してしまうと、物理世界の存在の前提である「コンピュータは世界を作ることができない」という仮説は成り立ちません。
ひとつでもバーチャル世界の存在が確認された時点で物理世界説は崩壊します。
また、私たちがバーチャル世界を作り出せる以上は、私たちも、ほぼ確実に、他の誰かが作ったバーチャル世界の住民であるということになってしまうのです。
この結論に対して、ニック教授は、世界最古の科学雑誌『Scientific American』のなかで「部分的に同意できる」と述べています。
ニック教授は、デビッド教授が初めに出した「バーチャル世界と物理世界が50%:50%」という仮説の妥当性を疑問視し、「無差別の原理は信憑性がない」と主張しています。
世界は見分けられる?
この世界がバーチャル世界なのか物理世界なのか、直接見破ってしまう方法はあるのでしょうか。数学者のホウマン=オワリ氏が、このことについて研究しています。
オワリ氏によると、もし演算性能に制限がないコンピュータがシミュレーションを行い、この世界を作っているのだとすると、この世が現実のものかどうか見破る方法は存在しないといいます。
しかし そのコンピュータ性能に限界があるのなら、演算能力の限界によって この世界の真実を見破ることができるかもしれません。特に有力な突破口として期待されているのが、量子力学の実験です。
量子力学において、量子状態は、2つ以上の異なる状態の「重ね合わせ」として表現でき、「波動関数」を用いて数学的に記述することができるとされています。
そして、「見る」という行為によって初めて波動関数の崩壊が起こり、モノは1つの状態に定まるのです。崩壊こそがモノの存在を確定させているということです。
この崩壊のプロセスが、量子についての知識を単にシミュレートしただけのものなのか、それとも 実際に現実で起こっていることなのか、2つの立場で専門家の意見は分かれています。
オワリ氏によると、この世界がコンピュータによるバーチャル世界ならば、波動関数の崩壊プロセスは、プログラムによって動かされているに過ぎないということになるそうです。
オワリ氏は、崩壊プロセスが現実なのかプログラムなのか確かめるため、「二重スリット実験」を利用した研究に取り組んできました。
崩壊がプログラムによって動かされている場合、何らかの要因によってバグが発生することがあります。
オワリ氏は意図的にそのプログラムにバグを起こすことで、崩壊が現実のものではないという可能性を検証しようとしているのです。しかし 今のところ、その方法で研究が上手くいくかどうかはわかりません。
この世界がバーチャル世界である確率は50%という意見があります。そんなバーチャル世界について、多くの研究者が推論をしたり、この世界のバグを見つけようとしたりと、新たなバーチャル世界を検証しています。研究者たちが取り組んでいるバーチャル世界は、今あるゲームの世界とは違い「意識を持って行動する住民」すなわち私たち自身が存在します。そんな我々アバターが暮らすバーチャル世界を、人類が本当に生み出してしまうことはあるのでしょうか?もし実現すれば、それは私たち人類もまた、バーチャル世界の住民であるという可能性が、極めて高いと 証明されます。この非常に興味深い研究の最終地点は人類の行末なのでしょうか?
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