アメリカに中央情報局、通称「CIA」という諜報機関があるように、かつてのソビエト連邦にもソ連国家保安委員会、通称「KGB」という諜報機関があり、世界中で暗躍していました。現在のロシアのプーチン大統領が、KGBで諜報活動を行っていたことは有名です。
今回は、元KGB幹部要員であったワシリー・ミトロヒンが1992年にイギリスに亡命した際に持ちだした25,000ページにも及ぶKGBの極秘文書によって明らかになった、KGBが西側諸国で遂行した諜報活動の一部を紹介します。
アメリカのインフラを攻撃する作戦
KGBは1959年から1972年にかけて、アメリカの発電所やダム、石油パイプラインなどを攻撃する作戦を立て、攻撃を準備していたそうです。
最初に攻撃の目標としたのは、モンタナ州にある2つの大型水力発電ダムで、これらのダムを破壊することで、同州を含む周辺地域への電力供給が遮断できると考えたようです。
さらに、カナダ-アメリカ間の石油パイプラインや、カナダの製油所を破壊して、アメリカへのガソリン供給を遮断する計画も立てていました。
これらのインフラ破壊計画は、大規模なニューヨーク攻撃作戦の一環として行われていました。ダム破壊による電力供給の遮断で発生する混乱に乗じて、ニューヨーク港の倉庫にも大量の爆発物を仕掛け、アメリカの物流全体をストップさせる計画だったのです。
人種問題を利用した「PANDORA作戦」
1960年代のアメリカは、人種問題に端を発する公民権運動が活発化し、国中が混乱状態に陥っていたのですが、KGBはこの混乱を利用してアメリカの弱体化を図ろうと「PANDORA作戦」を実行しました。
まず、ユダヤ系右翼組織「ユダヤ防衛同盟」の名を騙ったパンフレットを作成し、ニューヨークではユダヤ人が黒人に襲われているとか、ユダヤ人が経営する店舗が略奪の被害に遭っているなどと喧伝し「黒いヤツら」と戦おうと、ユダヤ人の読者を扇動したのです。
同時に、黒人が「ユダヤ防衛同盟」に襲われているという虚偽の手紙を黒人系過激派組織に送付し、手紙には「ユダヤ人に報復せよ」とも書かれていました。
「ヨシップ・ブロズ・チトー暗殺計画」
ユーゴスラビア大統領のヨシップ・ブロズ・チトーは、ユーゴスラビアの独立を実現しようとしために、共産主義者でありながらソ連のスターリンと断絶していました。
ユーゴスラビアの独立を恐れたスターリンは、KGBの前身であるMGBにチトー暗殺を命令したのですが、チトーは奇跡的に無傷で暗殺を逃れました。
チトー暗殺計画に失敗したMGBは、独自に開発した高致死性細菌を、チトーが出席する外交会議で散布する無差別テロを計画したり、宝石箱に内蔵した毒ガスでチトーを殺害する計画を立てたりしたそうですが、どちらの暗殺計画も実行されませんでした。
銀行買収による機密情報入手計画
1970年代中頃、KGBは、北カリフォルニアの3銀行を買収し、アメリカ軍と提携している同地域のハイテク企業の機密情報入手を計画していました。
KGBは、シンガポール出身のビジネスマン、アモス・ドーと銀行の買収工作を仕掛けたのですが、アモス・ドーの資金がソ連系の銀行から流れていたことから、この計画はCIAに察知されてしまいました。
盗聴・監視技術に優れたKGB
1970年代、ソ連の衛星国エストニアに海外から多くの観光客やビジネスマンが訪れるようになると、KGBは外国人を盗聴・監視する機会ととらえ、1972年には首都タリンにあって外国人ビジネスマンが唯一宿泊できたソコス・ホテル・ヴィルの最上階に高性能の盗聴装置を設置しました。
ソコス・ホテル・ヴィルは、外観は22階建てに見えるのですが、その上に極秘の23階が存在していたのです。ここでKGBの諜報員は全客室を常時盗聴し、宿泊客を監視し続けていたそうです。
テロリストへの援助
1969年、ヤセル・アラファトはPLO、パレスチナ解放機構の議長に就任すると、KGBと同盟関係を結び、PLOはKGBから兵士の訓練や武器の供与を受けるようになりました。
そしてPLOは、1969年だけでも82回のハイジャック事件を起こしたのですが、KGBが事件を考案したそうです。また、KGBはPLPF、パレスチナ解放人民戦線への資金援助も行っていました。
PLPFの元リーダー、ワディ・ハダッドはKGBの諜報員で、数々のハイジャック事件を指揮したことが分かりました。
さらに、KGBはアイルランドを共産圏に取り込むため、1972年にはIRA、アイルランド共和軍に大量の武器を供与していたことも判明しました。
盗撮による脅迫
インドネシアを共産圏に取り込もうと画策していたソ連は、KGBを使ってスカルノ大統領の弱点を押さえようと考えていました。
KGBは、好色家のスカルノ大統領がモスクワを訪れた際、彼の好みの女性をCAとして飛行機に乗せ、大統領にアピールした後、滞在しているホテルの彼の部屋に送り込んだのです。
スカルノ大統領は簡単にワナにはまり、乱痴気騒ぎの様子が盗撮されたビデオテープを送りつけて脅迫したのですが、彼はまったく意に介さず、それどころかテープのコピーを送るようKGBに要求してきたそうです。
軍事コンピューターへのハッキング
1980年代、初期のインターネットを経由してアメリカの軍事機密情報の窃盗を計画していたKGBは、伝説的ハッカーのマルクス・ヘスを計画遂行に抜擢しました。
彼は、まずドイツのブレーメン大学のコンピューターに侵入し、次にアメリカの国防関係企業のコンピューターに侵入、最終的にはペンタゴン内部にあるアメリカ軍所有の軍事コンピューターなど400台へのハッキングを成功させたのです。
アメリカ軍基地を監視する「RYAN作戦」
東西冷戦の緊張度が再び増し始めた1980年代、アメリカが核兵器を使用した奇襲を実施する可能性があると発言したことを受け、ソ連はKGBに「RYAN作戦」という監視ミッションを命令しました。
「RYAN作戦」は人工衛星を利用して、常時アメリカ軍基地の監視を行い、アメリカからの核攻撃の気配を察知した場合は即時に本国に知らせることを目的としていました。
この他、有事の際には即時に行動を起こせるようスパイ網も形成していましたが、この大規模な作戦は費用が莫大となり、開始から3年後の1984年に縮小されました。
拉致事件への報復措置
1985年、レバノンでイスラム系過激派がソ連の外交官を拉致する事件が発生しました。
過激派は、人質の頭に銃を突きつけた写真をマスコミに送り、シリアへのソ連の支援中止とシリア軍のレバノン北部への侵攻中止を要求したのです。
当初、ソ連は過激派との交渉に臨むつもりでいたようですが、シリア軍を撤退させる気が無いことを感じた過激派は、要求から2日後に1人の人質を処刑しました。
これによってソ連は交渉を断念し、KGBが介入することになったのです。
KGBは拉致事件の背後にイスラム系武装組織ヒズボラの存在を確認し、報復措置としてヒズボラのリーダーの家族を誘拐、その身体を切断して過激派に送りつけただけでなく、ヒズボラのリーダーに他の家族にも危害を与えることが可能だというメッセージを発信しました。
KGBの介入から間もなく、拉致された3人のソ連の外交官は無傷で解放されたのでした。
ソ連の諜報機関であったKGBは、秘密警察として軍の監視や国境警備も担当していました。東西冷戦時代には、CIAと一、二を争う組織と言われていましたが、1991年のソ連崩壊と同時にロシア連邦保安庁、ロシア対外情報庁などに権限を移行し、解散しました。現在のロシアにおいて、これら後継機関がKGBと同等の活動を行っているのか、気になるところです。
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