大型の豪華客船「タイタニック号」は処女航海途中で沈没するという不幸に見舞われ、後に映画化されたことによって世界的に有名ですが、その「タイタニック号」に「姉」がいたことを知っていますか?
実際には「オリンピッククラス客船」と称され、1900年代初頭に建造された「オリンピック号」「タイタニック号」「ブリタニック号」の三大姉妹船があったのですが「オリンピック号」と「タイタニック号」が同時期に造船され、4本の煙突が並ぶ外観や大階段などの内装が瓜二つだったため双子の姉妹と言われることもあるようです。
一番船として先に竣工した姉「オリンピック号」は、悲劇の運命をたどった妹「タイタニック号」と異なり、24年におよぶ長い就航期間を経て引退しました。
今回は、この「オリンピック号」の数奇な運命について紹介します。
同じ時期に造船された「オリンピック号」と「タイタニック号」
「オリンピック号」と「タイタニック号」は、当時、大型の豪華客船の建造でライバル関係にあったキュナード・ライン社が所有していた「ルシタニア号」と「モーリタニア号」という姉妹船に対抗するべく、ハーランド・アンド・ウルフ社がホワイト・スター・ライン社に、3隻の大型豪華客船の建造を発案したのが発端です。
これには、アメリカの大富豪J.P.モルガン氏が、その資金の一部を提供していて、実は「タイタニック号」に乗船する予定だったそうですが、直前にキャンセルして難を逃れたそうです。
そして、同じ時期に造船された2隻は、外観や内装などのあらゆる点でよく似ていたそうです。
当時、世界一を目指す造船業者にとって豪華客船を建造する意義や目的は、技術的な面はもちろん、その名誉と実績の面でも、現在の宇宙開発競争に匹敵するものだったようです。
贅を尽くした2隻の豪華客船
「オリンピック号」も「タイタニック号」も、スピードよりも設備の豪華さに重点を置き、ゆとりある優雅で快適な船旅をセールスポイントにしていたため、船内にはジムやプール、トルコ式風呂をはじめ、各種店舗やエレベーターなどが完備されていました。
特に、「オリンピック号」は二等船室や三等船室の旅客であっても、図書室やダイニング、専用エレベーターなどの設備が用意され、かなり贅沢な船旅ができたようです。
「タイタニック号」を紹介する写真は「オリンピック号」の写真を流用
「オリンピック号」は「タイタニック号」と外観も内装もよく似ていて、区別がつけられなくなるほどでした。
インターネットなどで「タイタニック号」の内部を紹介する写真を見るかもしれませんが、実は「タイタニック号」の大階段のオリジナル写真は存在しないので、すべて「オリンピック号」の大階段の写真を流用しています。
「オリンピック号」の処女航海の船長がたどった運命
「オリンピック号」は1911年6月に就航し、処女航海はフランスからアメリカに向かう航路でした。
この処女航海を担ったのがエドワード・J・スミス船長でした。彼は、1912年4月10日、船長として「タイタニック号」の指揮に当たり、イギリス・サウサンプトン港の専用埠頭からニューヨークに向かう処女航海に出発し、悲劇的な最期を遂げたのでした。
「オリンピック号」は「タイタニック号」の救難に向かった
「タイタニック号」が北大西洋で氷山に衝突し、遭難信号を発信した時、「オリンピック号」は約800~900キロメートル離れた場所で信号を傍受し、即座に進路を変更して全速力で救難に向かったそうです。
しかし、すでに現場に到着し、乗客の救助を行っていた客船「カルパチア号」のアーサー・ロストロン船長は、残り185キロメートルにまで近づいていた「オリンピック号」に対して、救難活動への参加を断り、進路を変えるように進言したといいます。
それは、救助したばかりの生存者が、たった今沈没した船とよく似た船に乗ることでパニックに陥ることを危惧しての判断でした。
「オリンピック号」は、その後も航海を続ける中で、沈没した「タイタニック号」への弔意として、船内の娯楽をすべてキャンセルしたそうです。
「タイタニック号」沈没後の「オリンピック号」
「タイタニック号」が沈没した際、装備していた救命ボートの数の不足によって多くの犠牲者を出したことを受け「オリンピック号」は急遽、救命ボートの装備数を増やしたのですが、これには「タイタニック号」に装備していた救命ボートを流用した可能性があるそうです。
また、アメリカやイギリスが「タイタニック号」沈没事故を調査する際にも「オリンピック号」は重宝されました。
同様の事故を防止する方法を確立するため「タイタニック号」の沈没状況を再現するシミュレーションに活用したそうです。
「タイタニック号」沈没に関する陰謀説
「タイタニック号」の沈没事故は大きな社会的な関心事となり、沈没に関する陰謀説が出るようになりました。
一つは、保険金搾取を目的に、航海前に「タイタニック号」と「オリンピック号」をすり替えて、故意に事故を起こし、「オリンピック号」を沈没させたという説です。
これは「オリンピック号」が、1911年9月にイギリス海軍防護巡洋艦「ホーク」と接触し、船尾が大破したことで、修理する時に建造中の「タイタニック号」の部品を使わなくてはならなかったことや、1912年2月に大西洋航海中に障害物に乗り上げてスクリューブレード1枚を欠損した上、キールが歪むほどの損傷を受け、長期間の修理が必要だったことから、廃船予定となった「オリンピック号」を「タイタニック号」とすり替え、故意に氷山に衝突させたというものです。
もう一つは、「タイタニック号」のオーナーであったウォール街の帝王、J.P.モルガン氏が、ジョン・ヤコブ・アスター四世やベンジャミン・グッゲンハイム、イシドー・ストラウスといったライバルたちを計画的に消すために仕組んだ事故だったというものです。
実際、モルガン氏本人は乗船予定だったにも拘らず、直前にキャンセルした上、彼のライバルであった人物たちは事故の犠牲となっていたのです。
第一次世界大戦で活躍した「オリンピック号」
1914年に勃発した第一次世界大戦において「オリンピック号」はヨーロッパから逃れる人々を乗せ、大西洋を航行し続けていました。
また、ドイツのUボートの脅威が増す中、乗客153人を乗せて最後の商業航海に出ていた際にも、イギリスの戦艦から救助要請を受けて250人の乗員を救助しており、1915年に「オリンピック号」はイギリス海軍省の命を受けて、正式に軍用輸送船として徴用されたのです。
ダズル迷彩でカモフラージュされた「オリンピック号」は、のべ20万人の兵士を、29万6100キロメートル以上も輸送し続けただけでなく、ドイツ潜水艦「U–103」に体当たりを行い沈没させるなど、第一次大戦の海上戦を生き延び、「頼もしいおばあちゃん」という愛称で親しまれました。
引退後の「オリンピック号」
第一次世界大戦終結後、「オリンピック号」は再び客船として就役し、その後20年近く現役の客船として航行を続けました。
1935年に引退し、1937年には、豪華な内装の一部がオークションにかけられ、新たな建物や船の建材として使用されました。
かつて大西洋航路を賑わせた豪華客船「オリンピック号」は、約四半世紀にわたって栄光を築き上げてきました。ただ、その陰には姉妹船の沈没事故や、自身が遭遇した事故、戦争への徴用などもあり、その数奇な運命に不思議なものが感じられると思います。
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